ESG研究所【水口教授のヨーロッパ通信】ESG課題としての「経済的不平等」 - 投資家はどう向き合うのか
2017年01月17日
PRIは2016年に『なぜ、どのように投資家は経済的不平等に対応するのか(Why and How Might Investors Respond to Economic Inequality?)』と題したディスカッションペーパーを公表し、ロンドン、ニューヨーク、シンガポールと、各地でワークショップを開催してきた。12月には執筆者のデービッド・ウッド氏が来日し、東京でもワークショップが開かれた。このテーマは、サプライチェーンの人権問題と並んで、ESG課題のうちの「S」に関わる重要な論点だろう。だが、ESG投資としてこれをどう扱うかは難しい。経済的不平等を巡って欧米でどのような議論がなされているのか、その様子を紹介しよう。
1.経済的不平等とESG投資 - PRIの問題提起
英国が国民投票でBrexit(EUからの離脱)を選択し、米国の大統領選でトランプ候補が勝利した年に、「Economic Inequality」が注目を集めるのはいわば必然のように思われる。2016年を揺るがしたこの2つの出来事の底流にあるのは、経済を支えてきた中間層が不当に扱われているという感覚であり、資本主義がすべての人のためになっているのかという不信感ではないか。「Inequality」は「格差」と訳されることが多いが、そのような人々の感覚により近い語感の言葉として、本稿では「不平等」という訳語を当てることにした。
PRIのディスカッションペーパーは、トマ・ピケティの『21世紀の資本』を引き合いに、「上位1%の富裕層」に注目が集まったことを指摘している。実際、中国など途上国の成長によって世界全体で見れば経済的な平等が進んだが、一国内の不平等は拡大したという。2015年に合意された国連のSDGs(持続可能な開発目標)でも目標1の「貧困の撲滅」や目標2の「飢餓の根絶」とともに、目標10として「不平等の是正」が取り上げられており、機関投資家にも取組みが求められている。
ディスカッションペーパーによれば、投資家がこの問題に取り組むべき理由は、そうすることが単に「善行」だからではない。IMFとOECDは立て続けにレポートを公表し、いずれも「過度な経済的不平等は経済成長を阻害する」と結論づけている。不平等の拡大は社会の緊張を高めて、経済の不安定化を招き、中低所得層の購買力を削ぐことで、需要を減少させてしまう。それは長い目で見ればポートフォリオ全体のパフォーマンスに影響する。したがって経済的不平等は、長期投資家が考慮すべきESG課題の1つであるというのが、ディスカッションペーパーの立場である。それでは投資家はこの課題に具体的にはどう向き合えばよいのか。そこには4つの側面があると述べられている。
第1に投資先の評価やエンゲージメントに組み込むという側面である。具体的には経営者報酬や従業員の賃金水準、労働環境、人材育成など、さまざまな指標が考えられる。
第2に投資を通じて財務的リターンと同時に社会課題の解決を追求する「社会的インパクト投資」のように、問題の改善のために投資するという方法がある。マイクロファイナンスや貧困層向けの低家賃住宅の供給など、この面でもさまざまな選択肢が考えられる。
第3に金融化(financialization)との関係が問題になる。金融化とは、経済における金融の役割が増加し、多様な金融商品が広まり、金融的な活動がさまざまな分野に拡張していくといった現象の総称である。金融化の進展が不平等の拡大をもたらしたという意見は根強い。たとえば短期主義的なリスクテイクや投機的な運用が金融セクターで多額の報酬を生む一方、長期的な価値創造と将来の賃金上昇につながる息の長い投資を妨げてきたと批判される。金融自身が不平等の原因ではないのかとの批判にどう答えるのかが問題になる。
第4に政策形成に対して投資家として働きかけるという面がある。気候変動問題に関してはCOP21に向けて多くの投資家がさまざまな連合を作って意見表明をしてきた。経済的不平等についてはどのように協働するのかが問われている。
以上がPRIからの問題提起である。今後、ワークショップでのフィードバックも踏まえて新たなレポートが公表されることになるだろう。一方、経済的不平等を象徴する過大な経営者報酬に関しては、英国政府も課題と位置づけ、コーポレートガバナンス改革の検討を始めた。英国政府がどう対応しようとしているのか、次にその提案内容を見てみよう。
2.英国では経営者報酬が焦点に
英国の「ビジネス・エネルギー・産業戦略省」は、2016年11月29日に『コーポレートガバナンス改革』と題した政策文書(Green Paper)を公表した。この文書は、コーポレートガバナンスの枠組みを強化することを目的としたもので、3つのテーマに関してそれぞれ複数の改革案を示し、2017年2月17日を期限として意見を募っている。具体的なテーマは、①経営者報酬に対する株主の影響力の強化、②取締役会に従業員、消費者、取引先などのステークホルダーの声を反映する方法、③大規模非上場企業にも上場企業並みのコーポレートガバナンスの枠組みを適用すべきか、の3つである。
冒頭に首相のテリーザ・メイ氏が序文を寄せており、次のように述べている。「現在の政府は、特権的な少数者のためではなく、全ての人のためになる経済を目指している。社会の繁栄のために企業活動と市場の力は不可欠だが、人々が資本主義と自由市場を信じていられるためには、企業が消費者や従業員、そして社会一般からの信頼を勝ち得ていなければならない。近年、限られた少数の企業の行動が企業社会全体の評判を損なっており、何らかの変革が必要なことは明らかだ。」
そのような観点から最初に取り上げられているのが経営者報酬である。同文書によれば、英国の代表的な株価指数であるFTSE100の企業のCEOの報酬は、平均で1998年の約100万ポンドから、2015年には約430万ポンドに上昇した。従業員の平均給与との比率でみると、47倍から128倍へと拡大したという。この間、FTSE100全体で企業価値が大きく上昇しているわけではない。つまり大企業の経営者報酬は従業員の給与とも企業価値とも離れて上昇しているのである。このことが国民には、「上位1%」に富が集中する「不平等」の象徴に見えるのではないか。
英国では2013年に経営者報酬改革が行われ、上場企業は3年に1回、報酬方針について株主総会で拘束力のある議決(binding vote)を得なければならなくなった。また、この報酬方針に基づいた実際の支払額について毎年報告書を作成し、株主総会で拘束力のない投票(advisory vote)をしなければならない。政策文書では、これに加えて株主の関与をさらに強める多くの改革の選択肢が示されている。いくつか例をあげると、
- 実際の報酬についても拘束力のある議決を導入する
- 報酬の報告書の投票で支持を得られなかった場合に、強い義務を課す(1年以内に新たな報酬方針を提案して75%以上の支持を得なければならない、など)
- 報酬方針で報酬総額の上限を示すことを求め、実際報酬額がそれを超過する場合には拘束力のある議決を求める
- 経営者報酬について議論するための「株主委員会」を設けることにする
- 個人株主が株主総会で議決権を行使しやすくする方法を検討する(個人株主は経営者報酬等に関して機関投資家とは異なる視点があるかもしれないが、情報などの点で議決権行使がしにくい状況にあるため)
- 取締役会の報酬委員会が報酬方針を策定する前に、株主および従業員の意見を聞くことを求める
- CEOの報酬と従業員給与との比率の開示を求める(Pay Ration Reporting: 報酬比率開示)
などである。どの提案が実現するかはまだわからないが、株主の関与を強化することで経営者報酬の問題に対応するという姿勢ははっきりしている。このほか、2つ目と3つ目のテーマに関しても、ステークホルダーの声を強化するために取締役会にステークホルダー・アドバイザリー・パネルを設けることや、非上場企業にもコーポレートガバナンス・コードを適用することなどを改革案として示し、意見を求めている。
3.日本では何が問題なのか
英国だけでなく米国でも、極端に高い経営者報酬が不平等の典型として問題視されることは多い。これに対して日本では、1億円以上の役員報酬について有価証券報告書で個別開示が行われているが、経営者報酬が高すぎるとの指摘は、今のところ多くない。だが、それでは日本に問題がないのかと言えば、そうではあるまい。たとえば日本における相対的貧困率は国際的に見ても高い。
世帯の可処分所得を基に計算した個人の可処分所得を順番に並べ、ちょうど中央の人の所得の半分の金額を貧困線と呼ぶ。この貧困線以下の所得しか得ていない人の比率が相対的貧困率である。厚生労働省の国民生活基礎調査によれば、日本の相対的貧困率は1985年の12%から、2010年には16%まで上昇した。およそ6人に1人が相対的貧困ということになる。この値は、大人が一人で子供がいる世帯、すなわち母子家庭や父子家庭に限ると50%以上になる。これは、OECD34か国(当時)の中で33位と言われる(内閣府『平成26年版子ども・若者白書』第3章第3節)。つまり日本では経営者報酬の問題は大きくないが、経済的不平等は別の形で存在するということである。
日本の相対的貧困の原因を1つに特定することは難しい。だが、非正規雇用の増加が一因であることはたしかだろう。総務省の労働力調査によれば、2016年9月時点での非正規雇用者の人数は2025万人で、雇用者全体の37.5%を占める。この比率は、1984年には15.3%だったので、年々増加してきたことがわかる。非正規雇用の中には学生のアルバイトもあるし、60歳以上の高齢者の再雇用が進んだという面もあるので、非正規を一概に悪いとは言えない。しかし、総務省の同調査によれば「不本意非正規(正社員として働く機会がないために非正規雇用で働いている者)」の割合は、非正規雇用全体の中では16.9%であるのに対して、25歳から34歳に限ると26.5%である。つまり大学卒業から10年くらいの年齢層では非正規雇用の4人に1人が不本意非正規なのである。非正規雇用者は厚生年金に入れないケースも多く、将来さらに経済的不平等が拡大する恐れがある。
政府も対応を始めており、2016年12月には「正規か非正規かという雇用形態に関わらない均等・均衡待遇を確保」することを目的に、『同一労働同一賃金ガイドライン案』を公表した。その前文では「我が国においては正規雇用労働者と非正規雇用労働者との間には欧州と比較して大きな処遇差がある」とし、「賃金のみならず、福利厚生、キャリア支援・能力開発などを含めた取組み」を通して「不合理な待遇差の解消を目指す」と述べている。今後、このガイドライン案を基に法改正の立法作業を進めるという。
もちろん問題は非正規だけではない。正社員といっても大企業と中小・下請企業の間での格差や男女間の不平等、過労自殺が起きるような職場環境など、課題は多い。世帯収入が教育や学歴に影響することで社会階層の固定化につながりやすいという「貧困の連鎖」の指摘もある中、教育支援や就学支援などの面での社会的インパクト投資への期待もある。さらに、PRIのディスカッションペーパーが提起した金融化の問題も含めて、今後、経済的不平等の問題は日本のESG投資にとっても重要な論点になるのではないか。日本の関係者の間でも議論が深まることを期待したい。
QUICK ESG研究所 特別研究員 水口 剛