ESG研究所【水口教授のヨーロッパ通信】賃金格差と責任投資

日本でも格差社会という言葉が定着して久しいが、一部の欧米諸国ではこの問題はより深刻である。格差の拡大は倫理的・人道的な問題であるばかりでなく、結果として経済成長の阻害要因にもなるとして責任投資の分野でも論点になっている。一方でこれは高額化する経営者報酬と裏腹の関係にあるとの指摘もある。おりしも米国証券取引委員会(SEC)は、今年、経営者の報酬と従業員賃金の中央値との格差を開示するよう規定を改正した。責任投資は格差問題にどう対応すべきなのか、賃金格差をめぐる欧米の議論を紹介したい。

 

1.低賃金はESG問題

以前のコラムでも紹介した責任投資に関するシンポジウム「PRI in Person」で、「生活賃金(living wage)をめぐる議論 - 投資家が関わるべきか -」と題するセッションに参加した。生活賃金とは、人が一定の生活水準を維持するのに必要な最低限の時間給を意味する。パネルに登壇したグリニッジ大学(University of Greenwich)のオズレム・オナラン(Ozlem Onaran)教授の説明は印象的だった。同教授によれば、主流派の経済学は賃金をコストとしてしか扱わず、それが購買力、すなわち需要の源泉になるという側面を見落としている。1980年代以降の新自由主義(ネオリベラリズム)政策の結果、途上国と先進国のいずれでも国民所得に占める賃金の割合は下がり続けてきたという(注)。つまり経済が生み出す付加価値のうち賃金への配分を減らし、その分、資本の取り分である企業利益の配分を増やしてきた。わかりやすく言えば、賃金カットによって利益を確保してきたということである。それが結果的には総需要を抑制し、経済成長を阻害してきたのではないかというのである。

同教授は、ILO(国際労働機関)を通して2012年に公表した報告書『総需要は賃金主導か、利益主導か(Is aggregate demand wage-led or profit-led?)』の中でG20に属する16か国を対象に実証分析を行っている。その結果、国別にみると、賃金の抑制はEU諸国や日本など多くの国で需要の減少要因になるが、アルゼンチンやメキシコなど需要の増加をもたらす国もいくつかあった。しかし国家間の相互作用も加味したグローバル・モデルで分析すると、賃金抑制が各国で同時に起きることで、世界全体で需要が減少すると結論づけている。

それではこの賃金の問題は、責任投資やESG投資とどう関わるのか。人的資本の観点から、従業員の処遇をESG投資に結び付ける論理はさまざまに考えられる。たとえば従業員のモチベーションやロイヤリティ(忠誠心)に影響する、勤続年数が延びることで技術やノウハウなどの無形資産の蓄積が進む、などである。だが同教授はそのような個別企業レベルの影響ではなく、経済全体に与える影響を問題にしている。これはまさにユニバーサル・オーナーシップに関わる問題であることがわかるだろう。資産規模が大きく、多数の企業に分散投資するユニバーサル・オーナーにとっては、経済や社会全体の動向がポートフォリオに及ぼす影響が重要なのである。同教授の投資家へのメッセージは、自らの長期的な投資利益を守るため、政府に対して賃金低下を是正する適切な政策をとるように働きかけるべきだというものであった。

これに対しては、適正な賃金水準をどこに求めるかは価値観に関わる問題ではないかという意見や、それは政府の責任で対応すべきことで、投資家が口出しすることではないのではないかという意見もあった。しかし、気候変動問題も以前は同じように言われたが、今では投資価値に関わる問題だと認識されるようになったではないか、というのがパネルからの答えであった。

一方で、たとえばトルコやシリアなどとイギリスやフランスとではそもそも生活賃金の水準が違うという指摘もあった。途上国の企業が現地で十分暮らしていける賃金を払っていても、先進国の企業はコスト面で競争に負けてしまう。見方を変えればこの問題は、国際的な不平等の問題とも関わっている。賃金を引き下げることはマクロ的に見て消費を減退させる一方で、国として国際競争力を維持するという側面もあり、政府の対策が消極的になる一因でもある。しかしどの国も国際市場での競争上の地位を守りたいと思うので、賃金の引き下げは他国へと波及しやすく、いわば「底辺への競争(race to bottom)」になる。そのため、低賃金に根ざした国際競争力は長続きしない。80年代以降、各国で起きたのはそのような現象であり、それが経済全体での需要不足を生んできたというのである。

 

2.経営者報酬開示規制の強化

このようなさまざまな議論がある中、低賃金の問題は経営者報酬の高額化と裏腹の関係ではないかとの指摘があった。経営者報酬が高額化しているということは、トップ層を除いて考えると、労働者への分配比率の低下はさらに大きいということである。たとえば米国の労働組合のナショナルセンターであるアメリカ労働総同盟・産業別組合会議(American Federation of Labor and Congress of Industrial Organizations : AFL-CIO)の2015年5月の発表によれば、代表的な株価指数であるS&P500を構成する500社のCEOの2014年の平均報酬額は1350万ドル(約16億2千万円)で、同時期の従業員の平均賃金3万6千ドル(約432万円)の375倍だったという。能力や努力、貢献度に応じて報酬が異なるという基本的な考え方は肯定されるべきだと思うが、375倍は大きすぎないか。

これほど格差が開くのは、CEOの報酬にストックオプションや株式報酬が含まれているからである。この比率は2000年の525倍よりは小さいが、2009年の300倍から再び上昇に転じている。1980年には42倍だったというので、オナラン教授が指摘する通り、1980年代以降明らかに格差は拡大してきたと言える。

同様の傾向は英国でも見られる。英国で経営者報酬の高額化問題に取り組む「ハイ・ペイ・センター(High Pay Cetre)」が2015年8月に公表した報告書によれば、FTSE100に属する100社のCEOの2014年の平均報酬額は496.4万ポンド(約9億円)で、FTSE100の従業員の平均給与の148倍、英国全体の従業員給与の中央値と比べると183倍であったという。ハイ・ペイ・センター理事長のデボラ・ハグリーブス(Deborah Hargreaves)氏は、このような経営者報酬の高額化は社会の不平等を拡大するとして批判している。

それではこの問題にどう対応すればいいのか。少なくともPRI in Personのセッションでは、CEOの報酬に上限を課すといった方法を支持する声は少なかった。代わりに出たのは、情報開示を進め、市場を通じてチェックするという考え方である。米国SECの新たな開示規制が念頭にあってのことであろう。

SECは2015年8月に報酬比率開示(Pay Ratio Disclosure)に関する規定の改正を公表した。これは、上場企業等がSECに提出する報告書の記述情報部分の内容を規定する規則S-Kの一部を改正するもので、新たに以下3点の開示が求められることになった。

  • CEOを除く全従業員の年間総報酬の中央値
  • CEOの年間総報酬
  • CEOの年間総報酬に対する従業員の年間総報酬の中央値の比率

この規定は2010年7月に成立したドット=フランク・ウォール街改革・消費者保護法953条で導入を求められていたもので、5年越しで規制の実現にこぎつけたことになる。今年10月19日に発効し、2017年1月1日以降に開始する事業年度から適用される。米国や英国では、拘束力はないとはいえ、株主が取締役報酬について投票するSay on Payと呼ばれる制度があり、従業員との報酬格差の開示は高額の報酬に対する一定の圧力になると予想される。

一方日本では、役員報酬が1億円を超える場合には有価証券報告書での個別開示が求められる。今年7月には日本経済新聞がこの有価証券報告書の記述を基に、2015年3月期の報酬1億円以上の役員一覧を公表したが、5億円以上の役員報酬を受け取っていたのは15人で、うち10億円以上は6人だった。これを見る限り、役員と従業員の賃金に関しては、日本は現在でも米国や英国よりは格差が小さいと言えるだろう。

もっとも、経営者報酬以外の面に目を向けると、非正規雇用の増加や男女間の処遇の違い、サプライチェーンの中の格差など、日本にもさまざまな課題がある。「低賃金はESG問題だ」という指摘にどう向き合うのか。賃金と雇用のあり方を強みに変える、そんな日本の知恵が試されている。

(注)国民所得に占める雇用者報酬の比率、または付加価値に占める人件費の比率を労働分配率と呼ぶ。これには複数の計算方法があるため、日本の労働分配率に関しても「上昇している」、「低下している」、「安定的に推移している」など、さまざまな見方がある。しかし、OECDの2012年の報告書『OECD Employment Outlook 2012』によれば、過去30年間にわたりOECDのほとんどすべての国で国民所得に対する労働の取り分は低下してきたとされ、日本では1990年から2009年の間に5.3ポイント低下したとされる。また、この間、上位1%の高所得者の所得割合は増加していることから、上位1%の高所得者を除くと労働分配率の低下はより大きなものになるとも指摘している。本稿は、このOECDの認識を前提にしている。

 

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QUICK ESG研究所 特別研究員 水口 剛