ESG研究所【水口教授のヨーロッパ通信】英国企業の情報開示へのアプローチ 戦略報告書を読む -TESCO と M&S
2016年02月02日
戦略やビジネスモデルをきちんと説明するので、投資家は、短期的な業績変動などに惑わされず、長期的な観点から株式を保有してほしい。戦略報告書(strategic report)という名前には、そんな思いが込められているのだろう。これは、英国企業が年次報告書の一部として作成することを義務づけられた書類である。その内容は、日本でも注目が集まる統合報告に近い。だが、統合報告書を自主的に作成する日本と違い、英国の戦略報告書は義務である。戦略報告書を制度化することでどのような開示が始まっているのか、テスコ(TESCO)とマークス・アンド・スペンサー(M&S)という英国の代表的小売業2社の実例を見てみよう。
1.日本と英国で異なる情報開示へのアプローチ
国際統合報告評議会(IIRC)は2013年に「国際統合報告フレームワーク」を公表した。これを機に日本では統合報告書を自主的に作成する企業が増えてきた。ESGコミュニケーション・フォーラムの『国内統合レポート発行企業リスト2014年版』によれば、2014年12月末時点で統合報告書を作成している日本企業は142社となり、前年の96社から1.5倍近い伸びを見せている。2015年5月には日本公認会計士協会が、海外企業10社の統合報告書の事例調査を行って『統合報告の国際事例研究』を公表するなど、日本では統合報告に対する関心は依然高い。その特徴は、あくまでもこれを自主的な開示と位置づけている点にある。
一方、英国では、2013年に会社法を改正し、小企業を除いて「戦略報告書」の作成を義務づけた。改正法によれば、戦略報告書には事業の公正なレビューを含めなければならず、そのレビューには必要な範囲で財務的なKPI(主要なパフォーマンス指標)を用いた分析と、環境問題及び従業員問題に関連する情報を含むその他のKPIを用いた分析を含めなければならない。さらに上場企業の場合には、必要な範囲で、戦略報告書に環境問題、従業員、社会、コミュニティ、人権問題に関する情報を含めなければならない。また、上場企業は戦略報告書で戦略とビジネスモデルについて説明し、取締役とその他の上級管理職の男女別の人数も開示しなければならない。つまり戦略報告書は、財務情報とESG情報を統合し、戦略とビジネスモデルを報告するのである。まるで統合報告を制度化したかのようではないか。
実際、スーパー大手のM&Sは、戦略報告書を統合報告として作ろうとしている。だが、一般論として戦略報告書は統合報告の制度化と言えるのだろうか。
2.戦略報告書は統合報告か?
戦略報告書については、英国のスチュワードシップ・コードやコーポレートガバナンス・コードを発行した財務報告評議会(FRC)が、2014年6月にガイダンスを公表している。これをIIRCのフレームワークと比較することで、戦略報告書が統合報告の制度化と言えるのか、考えてみよう。
IIRCのフレームワークとFRCのガイダンスはいずれも具体的な記載事項の前に、開示される情報に求められる基本的な特質を「原則」として示している。表1にその内容を対比して示した。両者はともに将来志向(future orientation またはforward-looking orientation)と簡潔性(conciseness)を求めている点では共通である。IIRCのフレームワークが信頼性(reliability)と呼ぶ内容は、情報の選択にバイアスがなく、バランスがとれていて、重要な間違いがないことと説明されおり、FRCのガイダンスが求める公平(fair)でバランス(balanced)がとれていることという原則と共通である。重要な情報を落とさずに含んでいることを、IIRCでは完全性(completeness)と言い、FRCでは包括性(comprehensive)と呼んでいる。IIRCが強調している重要性(materiality)がFRCの方に含まれていないように見えるが、FRCのガイダンスは別に「重要性」と題した章(Section 5 materiality)を設けて詳述している。このように見てくると、重要性のある戦略的な情報に焦点を絞って簡潔に報告せよという点では、両者はかなり重なると言ってよい。
違いの1つは、IIRCのフレームワークでは、企業の価値創造は企業だけでできることではないとの理由から、ステークホルダーとの関係がわかる情報を提供すべきとの原則(Stakeholder relationships)を置いていることである。これはFRCのガイダンスにはない。その代わり、戦略報告書では具体的な記載項目として環境問題、従業員、社会、コミュニティ、人権などが列挙されている。
表2は統合報告書と戦略報告書に求められる具体的な記載項目である。戦略、ビジネスモデル、主要なリスク、KPIなど多くの記載項目が共通している。IIRCのフレームワークで外部環境(external environment)とされている項目は、戦略報告書では事業に影響を与える「動向と要因(trends and factors)」と表現されている。統合報告書で記載を求められる「ガバナンス」という項目が戦略報告書にはないが、これは年次報告書の中で戦略報告書とは別にコーポレートガバナンス報告書が義務づけられているからであろう。
こうして見ると、上場企業の戦略報告書は形式的、表面的にはかなり統合報告書に近い。だが、それだけで実際の戦略報告書をすべて統合報告と言っていいのか。これは、統合報告をどう捉えるかに関わっている。
IIRCのフレームワークは開示原則と記載項目の前に「基礎概念(Fundamental Concepts)」と題する章を設けて、統合報告の基本的な考え方を述べている。それによれば、統合報告とは企業の価値創造について報告するものだが、価値は企業の内部だけで生まれるわけではなく、自然資本や社会・関係資本などから影響を受けている。また、企業の活動は自然資本や社会・関係資本などに影響を与えており、それも企業の価値創造に関わっている。したがって投資家や株主などの資本提供者は、財務的な資本に関わる価値創造に関心を持つと同時に、それ以外の多様な資本に関わる価値創造にも関心を持つ。このような考え方の全体が「統合思考(integrated thinking)」であり、統合思考に裏打ちされた報告が統合報告なのである。
統合報告の実質をこのように捉えるとすれば、たとえ記載項目が揃っていても、それだけで統合報告になるとは限らないだろう。それでは、実際の戦略報告書はどのような開示をしているのだろうか。
3.TESCOとM&S
テスコ(TESCO)は食品を中心とする英国の大手スーパーで、ロンドン市内を歩けば、どこにでもあると言っていいほど、すぐに見つかる。M&Sも英国の大手スーパーで、TESCO同様、ロンドン市内ではよく見かける。TESCOよりやや高級な印象で、衣料品を中心としていたが、最近は食品にも注力している。このよく知られた2社の戦略報告書を比べてみよう。
表3にTESCOの、表4にM&Sの戦略報告書の記載内容を要約して示した。TESCOの戦略報告書は表紙を除き41ページ、M&Sは34ページと、共に厚すぎず読みやすい。どちらも写真をふんだんに使い、デザイン的にもよくできた作りで、無味乾燥な報告書という印象はない。両者を比較すると、ビジネスモデルやリスク、役員の報酬額など、基本的な項目が共通していてわかりやすい。一方で、戦略やビジネスモデルに関する具体的な記載内容は、それぞれの会社の実情を反映し、個性的である。
TESCOはここ数年の業績悪化と粉飾決算の発覚を受けてCEOが交代したところであり、新CEOが会社をいかに立て直すかについて、自分の言葉で明確に語っているのが印象的である。彼が示す戦略の中では環境や社会の要素は直接的には登場せず、環境・社会のページは別に設けられている。その意味ではCSR報告書の要約が掲載されているだけで、統合報告とは言えないかもしれない。ただ、環境・社会のページでは、健康な生活や食糧不足への対応などは顧客の関心事でもあり、それに応えることで、価値創造へのアプローチを顧客の期待と整合させていくと書かれている。
一方、M&Sは統合報告を推進する「IIRCビジネスネットワーク」のメンバーであり、戦略報告書の冒頭で、2016年までにはIIRCのフレームワークをすべて満たす統合報告書を作ると記している。同社は環境、人権、社会貢献などの包括的なプログラムを「プランA」と名づけており、ビジネスモデルの図でもプランAをその中心に位置づけている。「M&Sは正しい行い(right thing)をしているはずだ」という消費者の信頼がビジネスモデルの中核にあるというのである。自然資本や社会・関係資本がビジネスモデルに関わっていることも図に明示されており、これはすでに統合報告書と言ってよいだろう。
以上、2つの事例だけで結論を出すのは早計だが、戦略報告書の制度化は企業が統合報告を行う可能性を高めたとは言えるのではないか。たしかに戦略報告書の形式を満たしただけで必ず統合報告と呼べるとは限らないが、少なくともすべての上場企業がこの種の報告書を作るのである。日本では、制度化すると記述が画一化して内容のないものになるとの意見もあるが、この2社の例を見る限り、その批判は当たらない。両社の戦略報告書はどちらも個性的で、画一化とは無縁のものであった。
ただし、戦略報告書ないし統合報告書の作成がCSR報告書を代替するものでないことには、注意が必要だろう。M&Sの戦略報告書はプランAを戦略とビジネスモデルの中に位置づけているが、プランAの内容そのものはこの報告書からはわからない。同社は別途「プランA報告書」を作成して、その詳細を説明している。この点はTESCOも同様である。戦略報告書の中の環境・社会のページは要約であり、ウェブサイト上で別途詳しい開示が行われている。英国の戦略報告書は、アニュアルレポートとCSR報告書を合体して簡素にするといった発想とは別物なのである。
QUICK ESG研究所 特別研究員 水口 剛