ESG研究所【水口教授のヨーロッパ通信】現代奴隷法 - サプライチェーンの人権リスク -
2015年11月11日
2015年3月、英国で「現代奴隷法(Modern Slavery Act 2015)」が成立し、10月29日に施行した。名前だけ聞くと、まるで奴隷の取扱いについて定めた法律のようだが、もちろんそうではなく、強制労働などの現代的な奴隷の防止を目的にした法律である。同法は企業に対して、サプライチェーンにおける強制労働の防止に関する年次報告書の公表を求めている。強制労働が欧米でどのように問題となっているのか、その一端を紹介しよう。
1.強制労働の現状
2014年に公開された「それでも夜は明ける」という映画をご覧になっただろうか。時は南北戦争前。アメリカ。自由黒人だったソロモン・ノーサップは、騙されてつかまり、奴隷として南部に売られてしまう。それからの奴隷としての苛酷な日々。自由はなく、鞭で打たれ、綿花摘みなどの労働をさせられる。最後には北部の友人に助け出されるのだが、それまでの12年間が痛々しい。ノーサップ自身が1853年に著した『Twelve Years a Slave(奴隷の12年間)』に基づく実話である。
映画を見た時には、「こんな時代に生まれなくてよかった」という単純な感想を抱いたものだが、ILO(国際労働機関)が2014年に公表した報告書『Profits and Poverty: The economics of forced labor(利益と貧困:強制労働の経済学)』は、その結論部分でノーサップの著書を引用し、それから150年以上を経た今日でも、同じことが行われている、と訴えている。強制労働、人身売買、強制された売春など、現代的に形を変えた奴隷は現在でも依然存在し、ますます儲かるビジネスになっているというのである。
この報告書は、強制労働の人数とそこから生み出されている利益を推計し、さらに強制労働の社会経済的背景を議論したものである。まず強制労働を「自由意思によらず、強制または詐欺の結果として行われ、報復の脅しによって強要されるあらゆる労働」と定義した上で、2012年に行われたILOの推計結果を再確認している。
それによると、世界で強制労働の状況にある労働者は2,090万人。そのうち90%にあたる1,870万人は民間セクターによるものであり、残りの220万人が刑務所での強制労働のような政府の関わるものと、民兵組織などに強要されて兵士になっているケースなどである。民間セクターでの強制労働のうち、450万人が強制された性的搾取(forced sexual exploitation)によるもので、残りの1,420万人はその他の一般的な労働、典型的には農林水産業、建設、製造、鉱山業、電気・ガス・水道、家事労働などである(図1)。
性別で見ると、女性が1,140万人で全体の55%を占め、残りの45%、950万人が男性である。報告書では18歳以上を大人と定義し、全体の74%にあたる1,540万人が大人だが、26%にあたる550万人は18歳以下の子供だとしている。地域別では、アジア太平洋地域が1,170万人で最も多く、アフリカが370万人で続いている。以下、ラテンアメリカとカリブ海地域の180万人、東欧・中欧地域の160万人、先進国及びEUの150万人と続く(図2)。
報告書はさらに、この人数の推計を基に、そこから生み出されている年間の利益を推計している。それによると、民間セクターで強制労働が生み出す年間利益は1,502億ドルである。そのうち3分の2にあたる990億ドルは性的搾取によるものであり、残りの512億ドルがその他の一般的な労働によるものとなっている。一般労働の内訳は、農林水産業が90億ドル、家事労働が80億ドルで、残りの340億ドルが建設、製造、鉱山業などである。地域別にみると、アジア太平洋地域での利益が518億ドルで最も多く、先進国及びEUの469億ドルが続いている。アジア太平洋地域は強制労働の被害者が最も多いためであり、先進国及びEUは強制労働一人当たりの利益率が最も高いためである。
報告書はこれらの強制労働の社会的背景として、貧困と教育レベルの低さ、特に識字率の低さをあげている。貧困層が低収入を補うために負債を抱えることが強制労働の入り口になっているというのである。そして教育レベルの低さが詐欺的な労働契約への抵抗力を弱めている。
日本では、このような強制労働に関する議論はまだあまりなじみがないかもしれない。だが、これは最近になって登場した問題ではない。ILOは1998年の総会で「労働における基本的原則及び権利に関するILO宣言とそのフォローアップ」を採択し、①結社の自由及び団体交渉権の承認、②あらゆる形態の強制労働の禁止、③児童労働の廃止、④雇用及び職業における差別の撤廃、という4つの基本原則を確認している。企業の代表的なCSR原則の1つであるグローバル・コンパクトの10原則のうちの4つもここから来ている。国際社会が長年取り組んできた課題なのである。そして英国政府は今年、この問題に対する取り組みを一歩前進させた。それが、現代奴隷法の制定である。
2.現代奴隷法の要求
現代奴隷法は第1部から第7部までの7部構成で全62条にわたり、強制労働や性的搾取を禁止し、これに関連する独立の政府委員会を設置し、被害者の保護を定めるといった包括的な法律である。その中の第6部、第54条に「サプライチェーン等における透明性」と題した規定が置かれた。この規定によれば、年間売上高が3,600万ポンド(約68億円)以上の企業は毎年度、「奴隷・人身売買報告書(a slavery and human trafficking statement)」を作成しなければならない(第54条第1項)。
この報告書には、当該企業が、①あらゆるサプライチェーンにおいて、また、②自社の事業のあらゆる部分において、奴隷と人身売買が行われていないことを確保するために、当該年度にとった措置について記述するか、または、そのような措置を取っていないことを記述するものとされている(第54条第4項)。現実には、自社の評判への影響を考えれば、何の措置も取っていないとは書けないだろう。さらに、報告書に含まれるべき情報として以下の事項が列記されている(第54条第5項)。 (a) 組織の構造、事業内容及びサプライチェーン (b) 奴隷と人身売買の防止に関する方針 (c) 事業とサプライチェーンにおける奴隷と人身売買の防止に関するデュー・デリジェンスのプロセス (d) 奴隷と人身売買の行われるリスクのある事業とサプライチェーンの部分、及びそのリスクを評価し、管理するためにとった措置 (e) 当該企業が適切と考えるパフォーマンス指標に照らして測定した、奴隷と人身売買の防止の有効性 (f) 奴隷と人身売買の防止に関するスタッフのトレーニング この報告書は取締役会で承認し、経営トップが署名しなければならない(第54条第6項)。また、ウェブサイトがあればウェブサイトに掲載し、ウェブサイトがない場合には、書面で要求した人に対して30日以内にコピーを渡さなければならない(第54条第7項、第8項)。本条の対象となる企業は、英国のいずれかの地域において、事業または事業の一部を運営している企業(第54条第12項)とされているので、英国内に支店や工場等を置いている場合には日本企業も対象になる可能性がある。
重要なことは、農林水産業や鉱山業等の分野で1,420万人が強制労働に従事しており、サプライチェーンに注意しなければ、気づかないうちにその種の人権侵害に関わってしまうリスクがあるということである。しかもそれは欧米では、非常に重要な問題と捉えられており、きちんと調査していなければ、企業の責任と受け取られる。御社の対策は万全だろうか。
関連サイト
- UN Global Compact
- 【イギリス】 2015 年現代の奴隷制法, 海外立法情報課 岡久 慶
QUICK ESG研究所 特別研究員 水口 剛