新卒採用における積分の発想からの脱却
2023年を振り返ると1つ、大きな変化がありました。それは「学生の声を聞きたい」という企業からの依頼が急に増えたことです。各社の話を聞くと「そもそも応募人数(エントリー人数)が減った」「内々定の辞退率が上昇した」「若手の離職率が上がった」という3つの指標のいずれか(または全て)が悪化したため、学生が何を考えて就職活動に臨んでいるのかを知るべく、私が担当する講義やゼミでの学生との意見交換の希望が舞い込みました。また、これまでは夏休みや冬休みといった長期休業中だけに行われていた企業インターンシップも常態化し、インターン後に内々々定を出す企業も多く、3年の秋の段階で内々々定をもらっているゼミ生も少なくありません。裏返せば、それだけ新卒採用が困難になっているということでしょう。
「新卒一括採用」という慣行の是非は置いておくとして、いまだにそれが主流であることは否めません。その根底にあるのは「積分」の発想だと思います。つまり新卒入社から定年退職までの全期間、従業員の(報酬を含めた)幸せの「面積」をいかに最大化させるか、という視点です。一方で、今の学生は「微分」の発想で就職活動に臨んでいるように思います。つまり、「20代にどれだけ自分の力を伸ばすことができるか?」という20代での能力向上の「傾き」を彼ら彼女らは重視しているわけです。
現在の大学3年生が生まれた年(2003年)の出生数は112万人ですが、もうすでに新卒採用が困難になってきています。2023年の出生数は73万人を割ると見込まれており、採用環境が急速に悪化していくでしょう。これまでの積分の発想からいかに早く脱却できるか、言葉を変えるならば、いかに早く過去の“しがらみ”から脱することができるか。これが新卒採用の成否のカギとなるのではないでしょうか。
(学生が就職活動で何を重視しているのか、学生対談の動画を配信していますので、ご興味があればご覧ください。
学生による「就職したい」会社座談会(45分)
http://tsumuraya.hub.hit-u.ac.jp/corporate.html
「2024年はあと2つの“しがらみ”に筆者は注目しています。それは人的資本と政策保有株式に関するしがらみです。
人的資本のしがらみ(人的資本マネジメントは現在スキルを見える化)
「人的資本」と聞いて何を思い浮かべるでしょうか。リスキリング、働き方改革、ジョブ型雇用、労働生産性、ジェンダー平等・・などが挙がると思いますが、事業ポートフォリオの見直しという目的のために人的資本のマネジメントに注目が集まっていると筆者は考えています。
日本企業の低利益率の一因として、事業ポートフォリオの見直しが進んでいないことが指摘できます。なぜ事業ポートフォリオの見直しが進まないのか。その大きな理由は、それぞれの事業に属しているヒト(従業員)が変化の阻害要因となっているからです。一橋大学の伊丹敬之名誉教授はそれを「心理の粘着性」と呼んでいますが、ヒトをうまく事業間で動かすことができるようにすることが事業ポートフォリオの見直しの際には肝心です。これは既存事業に限定した話しではありません。将来の事業展開を見据えて未来志向で考えていく必要があります。つまり、自社の事業を将来どのように展開していくかの構想が何よりもまず最初にあって、そのために既存の従業員をリスキング(知識の追加取得)したり外部から採用したりするわけです。これが人的資本マネジメントです。したがって、人的資本は人事の問題でも開示の問題でもなく、経営の問題です。
いまある企業がA事業とB事業とを営んでいます(便宜上、全社資産や負債はないと考えます)。現行の会計基準のもとではヒトの価値は資産には計上されていません。ただし、それを時価評価(公正価値評価)した場合にはA事業とB事業の時価の中にはその事業に従事している従業員によって生み出されている価値が含まれているはずです。
さらに、この企業のn年後の貸借対照表を考えてみましょう。n年後にはA事業は縮小し、一方でB事業は拡張する予定です。そして新しくC事業に進出しています。よってA事業の従業員をB事業とC事業と割り振るとともに、異動先で必要とされる新たなスキルを追加取得(リスキリング)してもらう必要があります。もちろん外部から必要人材を採用することもあるでしょう。
このように考えると、人的資本マネジメントの要諦は以下の4つに集約することができます。
1.現在、自社にあるスキルを見える化し(現在スキル)
2.未来に必要なスキルを明確化し(将来スキル)
3.そのスキルを新たに身につけて(適材適所)
4.ポスト(ジョブ)とマッチングする(適所適材)
まず、A事業とB事業の従業員が持つ現在スキルを見える化する必要があります。ただ、今の仕事で使っていなくとも、「趣味でプログラミングをやっている」「実は中国語が喋れる」といった従業員もいるでしょう。そうしたスキルも見える化しなければなりません。そしてその企業が将来に展開する事業において必要となるであろう将来スキルを明確にしなければなりません。そしてこの将来スキルから現在スキルを引き算したものがリスキリングの対象となるわけです。従業員が新たなスキルを身に着け(適材適所)、そしてポストに合わせてその従業員を配置する(適所適材)ことがいま求められている人的資本マネジメントです。
政策保有株式のしがらみ(経営の束縛からの脱却)
心理の粘着性という課題への対応が人的資本マネジメントであるとすると、取引の粘着性からの解放のきっかけとなるのが政策保有株式の解消だと考えています。筆者は株式の政策保有という企業行動それ自体は否定しません。それによって企業経営にプラスの効果が出ることもあるでしょう。しかしながら、日本企業全体で見れば、政策保有株式が企業自身の手かせ足かせとなって自由な経営を束縛してしまっていると考えています。戦後から高度経済成長期にかけて日本企業の経営基盤が脆弱だった時期には、株式の相互保有によって外国資本などによる乗っ取りから身を守る必要がありました。時を経て、それが今では逆に経営を縛っていると思います。刀槍で戦っていた時代には鎧は身を守ってくれましたが、鉄砲で戦う時代には身動きを制約する重荷となります。
株式の政策保有で目立った存在であったトヨタグループが2023年の終盤にその解消を相次いで宣言したことは特筆に値します。もちろんすぐに全株式が解消されるわけではありませんが、2024年にどの程度の解消の進捗があるのか、そしてこの解消の動きが他のセクター(金融業など)に波及していくかどうかを注目しています。
こうしたいくつかの“しがらみ”から脱却していこうとする前向きな意思を感じる企業行動が2023年にはいくつか報じられています。そうした胎動がどれほど広がっていくか、そうした視点で2024年を展望していきたいと考えています。
一橋大学大学院 経営管理研究科 教授
2001年、一橋大学商学部卒業。2006年、一橋大学大学院商学研究科博士後期課程修了、博士(商学)。2011年より一橋大学経営管理研究科 准教授、2021年より現職。2019年、韓国外国語大学客員教員。専門は情報開示、コーポレート・ガバナンス。2007年より日本IR協議会客員研究員。日本経済会計学会理事、日本IR学会理事。2017年よりりそなアセットマネジメント「責任投資検証会議」委員。2020年より金融庁「スチュワードシップ・コード及びコーポレートガバナンス・コードのフォローアップ会議」委員。主著に『コーポレート・ガバナンス「本当にそうなのか?」大量データからみる真実』(同文舘出版,2017年12月)、『政策保有株式の実証分析』(日本経済新聞出版,2020年6月)など。