アナリストはAIツールを活用している
デンソー:マテリアリティに「情報の欠落」
まずはデンソーの統合報告書を使って、マテリアリティ(優先取り組み課題)についてシンプルに「デンソーのマテリアリティは何ですか?」と尋ねてみたところ、以下の回答が得られた(一部略)。
デンソーの2024年度統合報告書におけるマテリアリティは、2030年長期方針の実現に向けて、社会課題の中から特に重要度が高く、デンソーが貢献できる分野として以下の3つの領域に分類されています。
1. 環境
地球環境の持続可能性を確保するため、以下の課題に取り組んでいます
- 地球温暖化防止:工場からのCO₂排出量削減や、電動化製品の普及を通じて、カーボンニュートラルの実現を目指しています。
- 大気汚染防止/環境負荷物質削減:有害物質の排出削減や、環境に配慮した製品設計を推進しています。
- 資源有効利用:リサイクルの促進や、資源の効率的な利用を図っています。
- 水資源の保全:水の使用量削減や、水質保全に努めています。
これらの取り組みを通じて、持続可能な社会の実現に貢献しています。
2. 安心
人々の安全・安心な生活を支えるため、以下の課題に注力しています
- 交通事故低減:先進運転支援システム(ADAS)の普及を通じて、交通事故の削減を目指しています。
- 自由快適な移動の提供:モビリティの多様化に対応し、誰もが快適に移動できる社会の実現を支援しています。
- 安心・安全な製品提供:高品質で信頼性の高い製品を提供し、顧客の安心を確保しています。
- 少子高齢化への対応:高齢者や障がい者の移動支援技術の開発など、社会の変化に対応した製品・サービスを提供しています。
これらの取り組みを通じて、社会の安心・安全に貢献しています。
3. 企業基盤
持続可能な企業運営の基盤を強化するため、以下の課題に取り組んでいます
- コンプライアンス:法令遵守と高い倫理観を持った行動を推進しています。
- 情報セキュリティ強化:サイバーセキュリティ対策の強化や、情報資産の保護に努めています。
- 人財活躍推進:多様な人材が活躍できる環境の整備や、働きがいの向上を図っています。
- 人権の保護/持続可能な調達:サプライチェーン全体での人権尊重や、持続可能な調達活動を推進しています。
これらの取り組みを通じて、企業の持続的な成長と社会的責任の遂行を目指しています。
デンソーの2024年度の統合報告書を見ると、32ページに該当箇所があることがわかる。
よく読んでみると、AIの回答は3つの領域「環境、安心、企業基盤」については捉えているが、最後の「企業基盤」の詳細については「健康/労働安全衛生」「働き方改革/働きがい向上」「ガバナンス」という3つの項目が抜け落ちている。7つの項目のうち3つが抜けているのは、該当ページの記述と見比べて初めて気がつくものだ。もし実際に統合報告書に目を通していなければ、このような項目の存在に気づかないままになっていたかもしれない。AIツールの要約には情報の欠落がしばしばあることについて、留意する必要があるだろう。
さらに詳しく見ていくと、AIの回答はそれぞれの項目の説明について、統合報告書の該当箇所の説明とは微妙に異なっており、その箇所では使われていない用語で補足情報的な説明が加わっている部分があることに気がつく。たとえば安心の「交通事故低減」という項目で、「先進運転支援システム(ADAS)の普及を通じて…」という表現があるが、該当ページには「ADAS売上収益」という言葉は出てくるものの、このような説明はされていない。統合報告書全体を読み込んだうえで補足しているのかもしれないが、このような短い説明において、一見すると正しくまともな内容に思える記述が、実際の記述とは異なる点は少々気になるところだ。
日本ペイント:価値創造モデルに「破滅的忘却」と「幻覚」
続いて、日本ペイントの価値創造プロセスについて尋ねた。同社の統合報告書では、他の企業でよく見られる「価値創造プロセス」(デンソー)や「価値創造ストーリー」(丸紅)といった表現は使われておらず、代わりに「価値創造モデル」と記載されている。該当箇所は6ページで、「価値創造モデル」のページであるが、これは図をふんだんに使っている。
AIツールに尋ねる前に、この価値創造モデルのページを人間(私)が読み解いてみると、以下のような感じである。日本ペイントのOutcome(最終的な目標)は株主価値最大化(MSV)であり、それを達成するために「アセット・アッセンブラー」(オーガニック=既存事業の成長=とインオーガニック=良質で低リスクなM&Aの積み上げ=の両方にわたる『持続的なEPS の積み上げ(Sustainable EPS Compounding)』を目指すもの)としてのプラットフォームを生かして、さまざまな経営リソース(人的資本、製造資本、社会関係資本、顧客基盤、知的資本、財務資本、自然資本)をInputし、中長期的な見通しのもとで、PER(株価収益率)とEPS(1株当たり純利益)を最大化するというOutputを得て、MSVの最大化というOutcomeを実現しようとしているようだ。
そこで、「日本ペイントの価値創造モデルについて教えてください」という質問をAIに投げかけてみたところ、以下の回答が得られた(一部略)。
日本ペイントホールディングスの2024年度統合報告書に記載された「価値創造モデル」概要
日本ペイントは、価値創造プロセスを「社会課題の解決と企業成長の両立」を軸に据え、以下の要素で整理しています。
1.【インプット資源(資本)】
- 財務資本(安定した財務基盤)
- 製造資本(グローバルに展開する生産拠点・研究開発施設)
- 知的資本(ブランド力、技術力、イノベーション)
- 人的資本(多様な人材・グローバルタレント)
- 社会・関係資本(顧客・パートナーとの信頼関係)
- 自然資本(持続可能な環境資源)
2.【価値創造プロセス】
- 社会課題(気候変動・資源循環・人口動態変化など)を起点に、ビジネス機会と捉える
- 技術革新・製品開発によって、社会課題に応えるソリューションを提供
- 持続的成長を支えるため、グローバルでの市場拡大と経営効率化・統合を推進
- 人材育成と多様性尊重により、イノベーションを加速
3.【アウトプット・アウトカム(成果)】
- 経済価値(収益・利益の成長、企業価値の向上)
- 社会価値(カーボンニュートラルへの貢献、安全・安心な社会の実現、パートナーシップ強化)
- 環境価値(温室効果ガス排出削減、省資源・省エネルギー製品の拡大)
■特徴的なポイント
- 「地球環境の保護」「人々の豊かな暮らし」という二軸を掲げ、社会価値と経済価値の同時実現を強調。
- 特に、建築用・自動車用塗料の高機能化や、バリューチェーン全体でのカーボンフットプリント削減に注力していることが明記されています。
- また、アジア・オセアニア地域を中心としたM&A・事業統合による成長戦略も、価値創造の重要な手段と位置づけられています。
要約すると、日本ペイントの2024年統合報告書では、「社会課題を起点とし、技術革新とグローバル展開を通じて経済・社会・環境の価値を共創する」ことを中心に据えた価値創造モデルが提示されています。
回答の中に、同社の統合報告書には明示的には書かれていなかった価値創造プロセスについての記述があることに気づく。ただ驚いたのは、Outcomeに3つのものが指摘されている点である。人間の目で確認する限り、同社の統合報告書の冒頭に「当社は株主価値最大化(MSV)を経営上の唯一のミッションとして掲げるアセット・アセンブラーです」と記述されているように、MSVの最大化がOutcomeとして指摘されるべきであろう。しかしながら何度読み直してみても、AIツールの回答にある3つのOutcomeについては明示的に示されていないのである。
当初は何が起きたのか理解できなかったが、岡野原大輔氏の著作『大規模言語モデルは新たな知能か―ChatGPTが変えた世界(岩波科学ライブラリー)』(岩波書店、2023年)の中の記述を思い出した。それは、生成AIの大規模言語モデルは、しばしば「破滅的忘却」と「ハルシネーション」(幻覚)を起こすというものだ。破滅的忘却とはこれまで学習した情報が突然大幅に失われる現象であり、ハルシネーションとは事実と異なる情報を作り出してしまう現象である。日本ペイントの統合報告書について学習した内容を破滅的に忘却してしまい、その統合報告書には書かれていない内容をハルシネーションで作り出してしまったのだと考えれば納得がいく。AIツールの回答を鵜呑みにすることは避けなければならないと強く感じた次第である。
丸紅:価値創造ストーリーに明示無き「重要な内容」も
最後に丸紅の価値創造ストーリーについて尋ねてみた。統合報告書の13ページにまとめられているが、これをどれだけ的確に読み取っているか検証してみよう。
生成AIツールからは以下のような回答が得られた。
丸紅の価値創造ストーリー:要点
◆基本的な枠組み
丸紅は「商社の枠組みを超える価値創造企業グループ」へと進化することを目指している。
経営理念:「経済・社会の発展、地球環境の保全に貢献する、誇りある企業グループ」。
社是「正(公正)・新(革新)・和(協調)」の精神を土台にしている。
◆価値創造の3つの戦略軸
既存事業領域の強化
非資源分野を中心とする既存の強みある事業をさらに拡張・深化。
米国での高収益事業(農業資材・中古車金融・再生可能エネルギーなど)を拡大。
新しいビジネスモデルの創出
未開拓の成長分野(ホライゾン3)※に挑戦し、将来の収益の柱を育てる。
例:グリーン事業、新エネルギー、ライフスタイルブランドなど。
※長期的な未来成長に向けた新しいビジネスを創出することを指す概念
資産の優良化・入れ替え
資本効率(ROIC<事業に投下した資金からどれだけの利益(リターン)を生み出したかを示す指標>・ROE<自己資本利益率>など)を意識した資産の精査とリサイクル。
不採算事業の売却や撤退も含めた戦略的なポートフォリオ管理。
◆推進の仕組み
SPP(Strategy×Prime×Platform)モデルを採用:
Strategy:戦略主導の投資
Prime:丸紅自身が主体的に事業運営
Platform:他事業との連携・展開を可能にする基盤
◆経済価値と社会・環境価値の両立
環境・社会マテリアリティとして、気候変動・森林保全・人権・強靭なサプライチェーン等を特定。
グリーン戦略のもと、「全事業のグリーン化」を図り、「ネイチャーポジティブ」の実現を掲げる。
◆ステークホルダーとの共創
社員、地域社会、取引先、株主、未来世代などとの共創によって、持続可能な価値を創出。
このように丸紅は、財務的成果の追求と、ESG(環境・社会・企業統治)課題への対応を同時に進める統合的経営を通じて、企業価値の向上を図る姿勢を強く打ち出しています。
細かく見ていくと、いろいろとつっこみ所が散見される。丸紅自身は「有り姿」として「商社の枠組みを超える価値創造企業グループ」であるとの現状認識を示しているが、AIツールの回答では、そのような企業に進化することを目指す同社のビジョンとして捉えていることがわかる。その一方で、価値創造ストーリーに示されている目指す姿、つまり「経済・社会の発展、地球環境の保全に貢献する、誇りある企業グループ」については、完全にスルーされてしまっている。
同社自身が価値創造ストーリーの中に盛り込んでいないにもかかわらず、AIツールは「推進の仕組み」としてSPP(Strategy×Prime×Platform)モデルを挙げている点も興味深い。SPPは同社の統合報告書全体にわたり、たびたび言及される重要な概念であるにもかかわらず、丸紅自身はSPPを価値創造ストーリーの中に組み込むことをしなかったのは不思議でもある。AIツールの回答は、価値創造ストーリーとして同社が示したものとは異なっているものの、意外と良い感じの回答になっているのではないかと感じてしまった。AIツールは、作成者側が明示していない重要な内容を拾い上げてくれることもあるわけだ。これはAIツールを使うことの大きなメリットであろう。
AIツールの利用、長所短所を理解の上で
AIツールを使って統合報告書の分析を進める際は、以下のような特徴を理解したうえで利用することが望ましい。
- しばしば情報が欠落した内容の回答を返す場合がある。
- 統合報告書の中に書かれていない内容が提示されることがあるが、それは破滅的忘却とハルシネーションが原因かもしれない。
- 作成者側が示していない事項でも、有用な情報を補足的に提示してくれる場合がある。
AIツールは少なくとも現時点においては、以上のような特徴(長所・短所の両方)を持った手段として、すべての回答を鵜呑みにしないよう留意する必要がある。半面、人間が見落とすような内容を拾い上げ、意外な気づきをもたらしてくれる場合もあるので、いろいろと試行錯誤しながら上手に利用するのがよいということになる。
このようにAIツールが統合報告書の内容を読み間違える場面を数多く見ていると、ある種のパターンが存在していることがわかる。そこで、次回はAIツールが苦手とする統合報告書の特徴について、これまでの経験から得たことを議論する。
坂上 学(さかうえ まなぶ)氏
法政大学 経営学部 経営学科教授
博士(経営学)(2017年9月 大阪市立大学)
商学修士(1991年3月 早稲田大学)
大阪市立大学(現大阪公立大学)商学部学助手・講師・助教授、同大学院経営学研究科准教授を経て2009年4月より現職。米国イリノイ大学客員研究員(1999年)、豪州アデレード大学客員研究員(1999~2000年)。
日本ディスクロージャー研究学会会長(2018~2019年)、日本経済会計学会会長(2021~2024年)ほか、多くの学会にて評議員・理事等に就任。税理士試験委員、不動産鑑定士試験委員、証券アナリスト試験委員、経済産業省・非財務情報の開示指針研究会委員、環境省・環境情報開示基盤整備事業ワークショップ委員等を歴任。
現在の研究テーマは「非財務情報の開示内容および開示方法に関する研究」で、とりわけXBRLを利用した情報開示に関心がある。主な著書に『事象アプローチによる会計ディスクロージャーの拡張』(中央経済社、2016年、経営分析学会森脇賞受賞)がある。
掲載日:2025年6月13日